論理的、過ぎる?

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カナダ人の友人は、日本人上司に、
「論理的過ぎる」という評価をされたことがあるそうです。

全然意味がわからなかった、と彼女。

「『論理的』には、論理的か、非論理的か、の2つしかなくて、
論理的なのは疑う余地なく良いことで、『論理的過ぎる』ということはあり得ないから」

藤原正彦が『若き数学者のアメリカ』の中で、アメリカの大学生の数学や地理の知識のなさに
呆れながら(と言っても、1970年前後のアメリカの話ですが)、

アメリカでは小学校から高校までの教育で、知識を詰め込むことより、
「いかに自分の意思を論理的に表明するか」「議論をどう展開するか」などに重点を置いている、
と書いていたのを思い出しました。

確か、英語は超論理的な言語なので、親しい人との会話では殺風景にしないために、
会話の最後に頻繁に相手の名前を呼びかけるのだろう(「僕はそう思うよ、ユカ」とか)、
ということも書いていたと思います。

そういえば、前の上司だったアメリカ人女性は、よく会話の中に"dear"とか
"darling"を入れてくれていました。

さて、「論理的過ぎる」と言われたカナダ人は、日本に長く住むうちに、
「論理的過ぎる」の意味がわかってきたとか。

「ドイツに行った時はちょっと大変だった。ドイツ人は論理的過ぎるから」と彼女。
「そう?じゃあ日本人は?」
「日本人はぜんっぜん論理的じゃないよー」

言語からしても、「論理的」には向かない文化かもしれませんね。

カナダにいた頃は、言いたいことがあれば思いついた時に言っていた、という彼女ですが、
「でも日本に来て、『今は時機じゃないな』とか、考えるようになった」

週末は大好きなみかん狩りを満喫したというし、もうほとんど日本人かもしれません。